福田歯科医院は富山県富山市の歯医者さん、インプラント、ホワイトニング(歯の漂白)、審美歯科治療などご相談下さい。

   
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 両親とも富山出身で、富山の日赤病院で産声を上げました。子供の頃から頭が大きく?体の割に重かったのでお地蔵さんのよう、と言われていたようです。その後、父の仕事の都合で幼稚園まで東京で過ごしていましたが、色白の細い子供でした。
 小学校へ上がるとき魚津へ越して4年生まで過ごしていましたが、残念ながら蜃気楼はみた事がありません。あれを見られた人は相当ラッキーですよね。この頃には日焼けして元気いっぱいで友人と秘密基地などを作って遊んでいました。5年生になるとき富山市へ戻ってきました。両親は仕事の都合で数ヶ月遅れる事になり、しばらく太郎丸の祖父母の家で過ごしました。祖父は耳鼻咽喉科の医師でしたが、孫の中で最年長の私の事は大変可愛がってくれて、よく皆に内緒で二人でドライブに行きました。とても嬉しかったのを覚えています。
 ただこの頃、同じく耳鼻咽喉科の医師だった五番町に住んでいた祖父の体調が思わしくなくなり、今泉の家ができたら一緒に暮らそうと思っていたのですが、建築中にかなわないこととなってしまいました。
 医師である父や祖父、曾祖母(富山で最初の女医さんなんですよ)の影響で早くから医療の道に憧れを抱いていました。そこで、ドイツと縁が深く医療の道を志すものも多い、叔父も通っていた東京の高校へ進学しました。小中の友人や家族と離れるのはつらかったですが、高校からの一人暮らしは良い経験になったと思います。両親にも感謝しています。大学生に混じってコインランドリーで洗濯したり、定食屋に一人で行ったり。中学生だった頃には経験しない事ばかりでわくわくの連続でした。
 この頃も医療系への情熱は高まるばかりで外科医を志した事もありましたが、一人でできる事への限界があり、患者さんとの距離が遠いように感じてしまっていました。そんな時、歯科医療を知る機会があり、クオリティー・オブ・ライフを考えたときに非常に大切な、食べる、という事に直結した医療の分野に強く魅力を感じるに至りました。
 両親は早くに少しだけ一人暮らしをさせて、という予定だったようですが、大学から、卒業して大学院、付属病院と新潟に居着いてしまい、親不孝だったかもしれません。この頃テニスやスキーと再会?し楽しく過ごしました。ずっとつきあっていけたら、と思っています。
 そんな日々を送るうち同郷の伴侶を得る事もでき、やはり故郷の富山へ帰って開業しようと思い、準備をしてきましたが、思いのほかすばらしい地で歯科医院を開設できました。週休一日ですがやりがいのある仕事で毎日意欲的に臨んでいます。こんな私ですが、皆様末永くよろしく御願いします。